明治から大正にかけて女学生の制服として大流行し、現代の学生たちもあこがれる、着物に袴を合わせたスタイル。活動的でありながら、女性らしさも兼ね備えた袴はどのように生まれたのでしょうか?
明治初期の一風変わった袴スタイル
明治の女学生の袴スタイルといえば、現代の卒業式で着られているようなスカートタイプの女性らしい袴を想像される方が多いでしょう。しかし、明治初期に女学校に通っていた生徒たちは、男性用とされる袴をはいていました。縦縞の生地に、腰板付きの二股に分かれたズボンタイプの袴です。
当時の社会では「袴は男のもの」とされており、宮中以外の女性が身につけることはありませんでした。ただ、女学生の服装が着物に帯というスタイルでは帯や裾が乱れやすく学業には向かない、とのことで政府は特例的に袴の着用を認めました。写真に残る当時の男袴姿の女学生たちは、優美とは言いがたく、きりりと勇ましい印象です。
明治初期の女学生は男袴で授業を受けていた。
出典:「国立国会図書館デジタルコレクション」より『怪化百物語 .下』
男袴姿への世間の批判
政府の許可まで得て使用された男袴でしたが、その歴史は短いものでした。男物の袴を女学生が身につける姿は違和感があったため、世間の反発が起こったのです。当時の新聞には、次のような批判の投書が相次いだそうです。
「女子といふものは髪形から着物までも艶くして総てやさしいのが宜いとおもひますに 此節学校へかよふ女生徒を見ますに袴をはいて 誠に醜くあらあらしい姿をいたすのはどういうふものでありますか」(読売新聞 明治8年10月8日)
明治12年から15年にかけて袴の着用は禁止され、女学生の服装は従来の着物に帯のスタイルに逆戻りしました。その後、いっときの洋装の流行も見られましたが、国粋主義の流れの中、再び和装に回帰しました。
女子教育の黎明期、女学生の服装はめまぐるしく変化した。
華族女学校での女袴の採用
こうした中で、女性向けの袴を制服として採用する動きが起こりました。明治18年創立の華族女学校(学習院女子部の前身)で、学監の下田歌子が宮中の袴をもとに、制服として機能性と優美さを兼ね備えた女袴を発案したとされています。歌子は女官として9年にわたる宮中勤務の経験があり、宮中の衣装を熟知していました。同校は宮内庁所管であったため、着物に帯のスタイルでは庶民風で礼容に欠くとの意向もあったようです。
つくりは男袴とは異なり、股が左右に分かれていないロングスカート式で、行灯袴(あんどんばかま)と呼ばれています。同校の袴は海老茶色と定められ、のちに全国的に広がり、当時の女学生の象徴となっていきました。
華族女学校がルーツとされる海老茶色の袴は当時の女学生に大流行した。
跡見女学校の「お塾袴」
また、明治8年に設立され、上流家庭の子女が多く通っていた跡見女学校でも、早くから「お塾袴」と呼ばれる紫色の女袴を着用していました。同校の袴も宮中に由来するとされます。
これらの女袴は同校と華族女学校のシンボル的存在でしたが、明治30年以降、女学生の間で急速に広がっていきました。それまでの帯や洋装のコルセットから女性たちを解き放ち、新たな時代へと導いていったのです。
その後、大正、昭和のモダニズムの中で本格的な洋装化とともに日常社会からは姿を消したものの、現代の女性たちにも卒業式の礼装として根強く支持されています。
左:明治32年に跡見女学校で制定された式服。 / 右:袴姿で卒業式に臨む現代の女子学生。
出典(左):跡見学園女子大学花蹊記念資料館所蔵